火炎と水流
―交流編―


#1 れれ? 小学生にも闇がある?


梅雨の晴れ間の爽やかな朝だった。集団登校して来た子供達が市立南小学校の校舎へ入って行く。4月に1年生になったばかりの桃香も水流といっしょに昇降口へ向かった。まだ新しいランドセルが桃香の小さな体には重そうだ。それでも彼女はにこにことうれしそうにしている。
「おはよう。桃香ちゃん」
「おはよう」
あとから来た友達があいさつする。水流も上履きに履き替えると桃香の手を取って言った。
「そんじゃ、桃ちゃん。おいらが迎えに行くまで待っててな」
「うん。水流も学校来れてよかったね」
桃香もうれしそうに言う。
「ああ。そこんとこだけは火炎に感謝しねーとな」

そうして、1年2組の教室まで桃香を送ると、水流は職員室に向かった。廊下のあちこちに子供達が描いた絵や標語などが飾られている。元気のいい男の子が駆けて行き、どの教室からも子供達の賑やかなおしゃべりが聞こえてくる。
「やっぱ、いいなあ。学校ってさ」
水流は通りすがりの教室を覗いては満足そうにうなずいた。
ただ一つ納得がいかなかった点は、転入するのが小学6年生のクラスだということである。

――えーっ? おいら、もう14なんだぜ。何で小学校に行かなくちゃならねーんだよ
――おまえの学力では桃香といっしょに1年生からやり直した方がいいくらいだ
火炎が言った。つい昨夜のことだった。
――だが、今更そうもいかん。幸い、おまえは体が小さいから十分小学生でも通用する
――ひでーな。せっかく学校に行かせてくれるって言うから喜んでたのにさ
文句を言う水流を無視して火炎は続けた。
――それに、おまえが桃香と同じ学校に通ってくれた方が都合がいいんだ
――都合?
――もしも、桃香が他の誰かにいじめられたらおまえが助けてやってくれ
――なーんだ。そういうことなら任せとけよ。可愛い桃ちゃんにいじわるするような奴は、おいらが生かしちゃおかねえ!
――ただし、行き過ぎたことだけはするなよ。妖力は絶対に使うな
――わかってらあ
――それと必ず桃香の送り迎えをすること。最近は小学生を狙ったとんでもない人間、不審者といわれる変態が多いんだ。桃香は特に可愛い子だから狙われやすいんじゃないかと心配なんだ
――へいへい。人間も妖怪より質の悪い奴が多いからな

水流は火炎との会話を思い出してふんふんとうなずいた。
(でも、ちょっと待てよ。昨夜はああ言ったけどさ、よく考えてみれば、あいつにとっての都合ばっかじゃねーか。もしかして、おいらってば妖怪がいいから火炎の奴に利用されてんのかもしれねーぞ?)
そう思うと今になってからだんだん腹が立ってきた。だが、桃香のことが好きなのは火炎ばかりではない。水流もまた桃香のことが大好きなのだ。それに、学校だ。小学校とはいえ、自分は人間の子供達といっしょに学校へ通うことができる。
「よっしゃ! ものは考えようだ。つまんねーことにこだわっててもらちがあかねーもんな」
と、いきなり大声で叫ぶので、丁度扉を開けようとしていた中年のおばさんがぎょっとして振り向いた。

「お早うございまーす! 職員室はここですか?」
そのおばさんに水流が訊いた。
「え、ええ。そうですけど……。あなたは?」
「あ、おいら、谷川水流。今日からこの学校に転校してきました!」
「ああ。あなたが谷川君ね。お話は聞いています。では、早速、担任の先生を呼んできますから、どうぞ。中に入って」
とおばさんは職員室の扉を開けてくれた。
「はーい。失礼しまーす」
水流は元気よくあいさつしながら中に入った。

そこでは、数人の先生達が忙しそうに授業の用意をしていた。と、いきなり後ろから声を掛けてくる者があった。
「やあ。君が谷川君かい?」
振り向くと目鼻立ちのはっきりした男の先生が立っていた。
「あ、はい。おいら、谷川です」
「おれが担任の烏場翼です。どうぞよろしく」
「うじょう つばさ……」
水流がつぶやく。
「それが何か?」
その先生は言った。
「いや。何でもねーよ。でも、ちょっとかっこいい名前だなと思ってさ」
「おお。そうだろう? 烏場翼。まるで芸名みたいにかっこいいだろ?」
と言って先生は笑った。

「けどさ、おいらの名前だっていかしてんだろ?」
「ああ。谷川水流……か。まるでミネラルウォーターみたいな名前だね」
と烏場先生ははっはっはっと愉快そうに笑った。
「チェーッ。何だよ。おいらはそんじょそこらのミネラルウォーターなんかとは訳がちがうんだぞ。何てったっておいらは……」
と言い掛けて水流は口をつぐんだ。
(おっと、いけねえ。正体をばらしちゃまずいんだった)
「はは。何が言いたいのかな?」
烏場先生の黒い瞳に太陽の光が反射する。
「そんなことはどうでもいいよ。それより、ねえ、先生。おいらの教室はどこ?」
「ああ。6年1組だよ。いっしょに行こう。そろそろホームルームの始まる時間だ」
烏場先生は明るくて快活ないかにも先生らしい先生だった。
(よし。この先生なら学校も楽しくなりそうだな)
水流は朝からご機嫌だった。


6年1組は丁度職員室の真上にある教室だった。クラスメイトは21人。水流が入ると丁度男女比も半々になるのだという。
「よーし。これでサッカーチームが2組。体育の時間が楽しみになりそうだな」
先生が笑う。
「でも、先生、次からは水泳の授業でーす」
前の席の女の子が言った。
「ほんとほんと。こう暑くなっちゃたまらねーもん。早くプールに入りてえ!」
後ろの席の男の子も言った。
「そうだな。最近は温暖化で例年暑さが厳しくなってるからなあ。先生だって早く入りたいよ」
「やーだ。先生。本当は女子の水着姿が見たいんでしょ?」
威勢のいい女子がからかう。男子達も一斉にヒューヒューと口笛を吹く。
「いいなあ。おれも見てえ」
「やだ! 男子ったらHなんだから……」
お互いに言いたいことを言うが、全体的に元気で明るいクラスだった。

「よーし。始業のベルだ。早速1時間目。国語の授業を始めるぞ」
先生がぱんぱんと手を叩くとみんなしんとなって机の中から教科書やノートを取り出し始めた。
「それで、谷川君、前の学校ではどの辺りまでやってたのかな?」
突然訊かれて水流は焦った。
「えっと、その……」
ときょろきょろと隣の子の教科書を見つめる。
「教科書がちがうのか?」
「え? そ、そうなんです。おいらのとは全然ちがっててその……」
「わかった。いいよ。それじゃ、沢田さん見せてやってね」
「はい」
烏場先生に言われて水流の左の席の女の子が少しずれて教科書を見せてくれた。

「よし。それじゃあ、一人1文ずつ読んでもらおうかな。本井君から」
先生の言葉に右端の男の子がガタンと椅子を鳴らして立ち上がった。そして、最初の文を読んだ。あとは順番に次々と立って読んで座ってを繰り返して行く。そして、1番後ろの席まで来ると、隣の子へ、そしてその前の席へと移って行った。
(ありゃりゃ、まずいぞ。あと3人でおいらの番だ)
水流は焦った。
(ひらがなだけなら何とかなるけど、漢字ってのがくせものなんだ。えーと、一体、今どこ読んでんだ?)

そして、順番はすぐに来た。
「はい。次は谷川君。ああ、座ったままでいいから」
「は、はい」
水流は返事だけしてじっと教科書を見る振りをした。なるべく先生と目を合わせないように頭を伏せる。
「どうした? 聞いていなかったのか?」
「え、えーと、はい。ついぼうっとして……」
「それじゃあ、沢田さん、教えてあげて」
先生の言葉に隣の女の子が指を指した。
「ここよ」
「えーと……そこで……は…へ…くと……を………して……」
しどろもどろの水流。その声はだんだん小さくなり、最後の方はほとんど聞こえなくなった。
「谷川君ってば漢字飛ばして読んでるぅ」
「それってウケねらい?」
クラスのみんながくすくすと笑う。

「よし。では次」
烏場先生が言った。
「あれ? 先生いいんですか?」
前の席の男の子が言った。
「ああ。谷川君はまだ来たばかりだから緊張しているんだろう。いいよ」
先生はやさしかった。
(ふぇー。助かった)
水流はべちゃっと机に腕を伸ばしてほっとした。それから漢字の読み方や新しく出てきた言葉の意味を調べた。それから主人公の気持ちなどをみんなで話し合った。
「……だから、ぼくは森や自然を壊したらよくないと思います」
鈴木君の発言にみんな拍手した。水流もここぞとばかりに拍手する。
(そうだそうだ。森や川を汚すなんてとんでもねーことなんだぞ)
そんな水流を先生は黙って見ていた。


そして、2時間目の理科の実験をしていた時、事件は起きた。
「よーし。それじゃあ、各班長さんは用具を取りに来て」
子供達は5つのグループに分かれて席に着いていた。水流の班は5人。班長の浅井さんが取りに行ってくれた。シャーレと小さな容器に入った実験溶液。それに米やじゃがいもなどだ。
「では、実際に酸性とアルカリ性の違いを色の違いで見てみよう。昔はこんなリトマス試験紙という物を使っていたんだが、今は……」
と、突然の悲鳴で先生の説明が遮られた。
「何だ? どうした!」
悲鳴を上げた女の子は1番後ろの席だった。先生が急いでそちらに行く。
「丸山君が虫をくっつけてきたんです」
その子が訴えた。
「こらこら、女の子にそういういたずらをしちゃいかんぞ」
烏場先生が注意する。その子はてへへと笑っている。
(何だ、あいつ。ちっとも反省してる顔じゃねーぞ)
水流は思ったが席が離れていたので少し様子を見ることにした。
「ごめんなさーい。おれ、こいつがアルカリ性か酸性か知りたかったんでーす」
と丸山は言った。
「そうか。いろいろなことに興味があるのはいいが、他の子に迷惑を掛けるんじゃないぞ」
先生に言われてその子は大人しく席に座った。が、今度は前の方で複数の子供達の悲鳴が聞こえた。

「火だ!」
水流が叫んだ。隣の班の方から煙と炎が見えた。燃えていたのは机の上のノートと女の子のスカートだ。みんなが動揺してきゃあきゃあ叫び、泣き出す子もいた。
「みんな、火のそばから離れて!」
烏場先生が飛んで来て女の子のスカートを手で叩いて火を消した。
「大丈夫か?」
幸い大したことはなかったが彼女はショックで口も利けない。
「誰か職員室に連絡して」
その声でドアの近くにいた何人かが大急ぎで駆けて行く。
「テーブルの火は……」
先生が振り向く。
「大丈夫。こっちの火はぜーんぶおいらが消しておいたぜ」
水流が言った。大きなその実験用のテーブルからはぽたぽたと水が滴っている。
「ありがとう」
先生は言ったが、何となく疑われているような気がして落ち着かない。
(やべ。おいらが水を呼んだとこ見られちまったかな?)
水流は周囲を見回し、さり気なくシャーレを持つと言った。
「火が出てたんで危ねーと思ってさ、こいつで水を汲んで来たんだ」
が、それはどう見ても流れている水の量とは合わない。しかし、そもそもそんなことを気にしている者はいなかった。

「誰がやったの?」
「村田君が……」
子供達がざわめいた。
「烏場先生! 一体どうしたんです? この騒ぎは」
他の職員達が駆けつけて来た。
「ちょっとした小火が……。火は消し止めましたが、そこの机とこの子のスカートが……」
「何ですって?」
あとから来た女性教師が驚いて女の子の側に行った。
「まあ、大変だわ。どこか火傷してない?」
女の子は泣きながら首を横に振った。
「平沢先生、取り合えず、この子を保健室へ」
烏場先生が言った。
「そうですね。佐々木さん、歩ける?」
彼女は女の子を連れて出て行った。
「それで、一体どうして教室から火が出たんですか?」
「それが……」
烏場先生が何か言おうとした時、子ども達が叫んだ。

「村田君がライターで火をつけたんです」
「村田? またあいつなのか?」
年配の男の先生が険しい顔をして言った。
「だからあれ程言ったじゃないですか。村田には気をつけろと……」
「気をつけていましたよ。それに今日は火を使う実験ではなかったし……」
烏場先生はのほほんと言った。
「だが、結果としてこれだ。村田はどこです?」
しかし、そこに彼はいなかった。
「ライターで火をつけたところまでは見たんですけど……」
みんな顔を見合わせたりひそひそと囁いたりしている。
(ありゃりゃ。あの村田って奴、相当悪い奴なんだな)
水流は思った。
「警察へ連絡しましょう」
年配の先生が言った。
「警察? それはちょっと待ってください」
烏場先生が言った。
「待つですと? 大体、あなたの指導が悪いからこんなことになったんじゃないですか! 佐々木はPTA会長の娘なんですよ。それを……!」
「それとこれとは関係ありませんよ。おれが責任を持って指導します。佐々木の親にもちゃんと説明して……」
「聞く耳持ちませんな」
その先生は頑固に言った。

「何でえ何でえ! 黙って聞いてりゃ、つまらねーことをぐだぐだ言いやがって……。6年1組は烏場先生が仕切ってるんだ。その中で起きたことはその中で解決するに決まってんだろうが」
水流が叫んだ。
「な、何だね? 君は」
「今日から仲間になった谷川水流様よ」
「何だって? また問題児か」
その先生は大げさに頭を抱えた。
「問題児とは何だよ? おいら、ちゃんと燃えてた火を消してやったんだぞ。おいらがいなかったらどうなってたと思うんだい? 今頃、こーんな学校なんざ丸焼けになっちまってたかもしれねーんだぞ」
「君が消しただって? どうやって」
「そりゃ、ちょちょいと水を呼んでさ」
「水を呼ぶだって?」
「そうさ。おいら……」

「よせ、谷川」
烏場先生が止めた。
「けど……」
不満そうな水流に彼はささやく。
「バレてもいいのか?」
「おっと、いけねー。そいつはまずいんだった。って、先生、あんた……」
烏場先生はしっと人差し指を唇に当てた。
(あれ? 何で気づかれてんだよ。烏場先生って何者? まさか、またこの間みてーに、みんな妖怪だったってんじゃねーだろうな)
水流は心配したが、それは杞憂だった。南小の児童も職員もみんな普通の人間だった。が、彼らの中には妖怪よりも深い心の闇を持つ者がいたのだ。